昭和20年8月6日、広島女学院中学の生徒であった宇野本(山崎)武子 は疎開作業に動員されていた広島一中横で被爆(爆心から1200m)。塀 の下敷きになったのが幸いし、生存者5人の中の1人であったが、やがて壮 絶な原爆症状が顕れた。武子は衰弱煩悶(はんもん)して『いったい私はど うしたらいいの?』と父・宇野本 信に問い掛けました。信は『武子、世界 平和のために犠牲になるのだよ』と諭すしかありませんでした。彼女は静か にうなずき、十分な医療も受けられないまま同年9月8日の夜誰も知らない 間に亡くなりました。 宇野本 信は娘の壮絶な死を無駄にしてはならないとの一心で平和運動に 関心をもち、中でもユネスコ精神『平和は人の心の中から築いてゆかなけれ ばならない』との考えに心をひかれました。その折、国立総合大学(現広島 大学)設立委員長であった長崎英造氏が、『平和運動はスポーツが重要な役 割をする。啓蒙運動翼賛のためユネスコ精神をとり入れた平和ゲームを案出 し、それに国立総合大学設立の陰で設立が断念された教育科学文化研究所 (Education Science Culture Institution)の略称ESCI(エスキー) の名をとどめるように』と、宇野本 信に依託されました。 そのため宇野本 信は一心不乱に、寝食を忘れスポーツ用具の開発に努め ました。当時の広島は物資に不自由する時代で、また、狭いところでも十分楽しめる もので無ければならないなどの制約の中で、板切れと魚網を利用したエスキ ーテニスが誕生いたしました。小さなコートで楽しめるよう、スポンジゴム ボールのスピードを押さえるために羽根をつけました。 その羽根の加工技術を応用して、後に自動車用毛ばたきの製造販売をする ことになり、昭和25年エスキー工業株式会社の設立に至りました。 (平成7年(有)イーエスシーアイに組織・社名を変更)
創業者宇野本 信の手記(原子爆弾によるヒロシマの惨状と、エス キーテニス誕生の経緯)
エスキーテニスの成立と普及(広島大学大学院 崎田研究員論文)
日本エスキーテニス連盟公式サイト